セクマイについて思うこと

ブログでセクマイのこと書くのもどうかなと思うのだけど書いてみる。
セクマイというのはセクシャルマイノリティの略で性的少数者のことを指す。僕もその一人でゲイ。同年代のいろんな当事者のかたと話す機会があって悩むのは、協力者とセクマイの関係なのである。
セクマイの協力者であるストレートのかたに対して、生態調査(研究)目的だと決めてかかる人(当事者)がいて個人的に驚いたことに端を発する。確かになぜ協力しようとするのか僕なんかも疑問には思うのだけど、決めてかかるのはどうなんだろ。それじゃあセクマイ(ゲイでも良いが)に固定化されたイメージ*1を抱く人たちと変わらないわけですよ正味。
セクマイと一口に言っても経験豊富な人もいればまだまだセクマイ歴の浅い人もおります*2。だから、当然ストレートの人に対してセクシャリティを明らかにするのは怖い人だっていますしそういう社会状況であることは否めません。でもよく考えれば、ストレートの人にだって理解を示してくれる人もいるし、理解できない人だっているわけです。そのとき当事者と協力者の隔たりって大きいのかな? ってふと疑問に思ったのです。
理解示す人と示さない人の距離よりは短いんじゃないの、当事者か否かという大きな問題はあるけれど。
研究目的というかセクシャリティ研究している人もいますが、その人だって悪意はないわけだし(そりゃ研究対象にされることに変な感じを抱きはするかもしれませんがね)。
でもこの問題は当事者の側が歩み寄らない限り解決しないように思えました。
今度協力者であるストレートのかたとお会いするので、どうしてセクマイ問題に興味があるのか、サポートしようとするのかを聞いてみようと思う。判断するならそれからでも遅くないし、有益な意見なり見方を得られるかもしれない。
セクマイの存在を認めてもらうためには相互理解が必要なはず。社会の側からのセクマイに対する理解ももちろんですが、当事者も社会に目を向けていかなければなあと強く実感した。社会は怖いかもしれないが一方通行では始まらないのだな*3

*1:例えばゲイでマッチョなイメージやオネエキャラを思い浮かべたりね。一部分を拡大解釈した場合が多いので当事者からしたら逆に奇妙な印象を受けることも。

*2:あくまで性自認の問題ですし、みんながゲイやバイといったセクシャリティにきれいにおさまるわけではないしその必要もありません。

*3:今回もだらだらと流してしまいました。読みにくくてごめんね。