パオロ・マッツァリーノ『つっこみ力』

「つっこみ力? ふざけたタイトルだなあ」とお思いになりましたか? そう、本書はマジメにふざけた一冊なんです。正しいだけの議論や正しいだけの主張が書いてある本なんて、読む気もうせますよね。本書では、世の中をおもしろくする力としての「つっこみ力」を目指しております。その本が四角四面にお堅かったらそれこそダメじゃあないですか。というわけで、中身も読みやすくライブ形式を採用。ノーストレスで楽しめる一冊ですよ!

前作同様、一気読み。
家政法経学院大の宝塚記念小講堂で2006年夏に行なわれた講演を本にしたものですが、そんな大学は存在しません! 自らを戯作者と名乗っているだけあって、まさに戯作三昧なのですが、この本の異常なまでのリーダビリティ(読みやすさ)は罪の域まで達してます。
つっこみ力、とは、「メディアリテラシー」という言葉が覚えにくいから、と著者が覚えやすくした言葉。〈人は正しいだけでは興味を持ってくれません。人はその正しさをおもしろいと感じたときのみ、反応してくれるのです〉という著者の主張はもっともなこと。ここの、人を大衆に変えるともっと良いかも、というかマッツアリーノさんほど、我々大衆を引きつけるコツを熟知しているかたも、なかなかおられないのではないのかしら。
んで、半分は「つっこみ力」の重要性などを説き、後半はデータの危うさを指摘しています。
私も大学で、データ処理なんかを学んでいるのですが、データが最初に存在するのではないんですね。
データはまず、(情報を)生成(もしくは借用)するところから始めます。出したい結果、もしくは結果についての予測がある場合、調査を行なったり、情報の一部分を切り取って、そこで初めて生成される「データ」に恣意性が生じてしまう可能性があるんです。
しかも、統計データに弱い日本人はデータに騙されがち。恣意性があるデータにいくら統計的処理を行なっても意味はありません。それに、統計学はサイエンスである以上、誰がやっても同じ結果が出なければおかしいのです。
本書で一番唸ったのは、「証明と説明は違う」ということでしょうか。当たり前かもしれないけど、普段考えていなかったことに、反省したくなるほどの言葉。証明は上のサイエンスと同じく反証可能なのに対して、説明は筋道のひとつでしかありません。それが、正しいかどうかなんて、わからないのです。
日本人って、論理に弱いなぁ。と、私自身がそうなので、つくづく思うよ。
三段論法をいとも簡単に信じてしまう。実際、風が吹いても、桶屋は儲からないのに。
だからこそ、つっこみ力をつけよう。頭上の議論なんて意味なんかないぞ!
ということが、読めば痛感すること間違いなし。

つっこみ力 (ちくま新書 645)

つっこみ力 (ちくま新書 645)