現代のエンターテイメント小説

【警告】無駄に長く退屈、かつ、ひどい内容ですので、気を付けてください。
いま、私がバイトしてる書店のレジ前では、本屋大賞受賞を記念してかどうかは知らないけど、伊坂幸太郎の著作群が平積みしてあったりするわけです。
んで、店長が『ゴールデン・スランバー』(新潮社)を読んでいるらしく、「どこかで聞いたことある名前やと思うたら、ビートルズの曲やったんか」という、どうでもいいことを帰り際に言って帰らはりました。
その後、社員さんとパートさんの間で伊坂さんとかの話になるんですが、店長が「時系列がごろごろ変わって、よう分からん」みたいなことを言ってたらしいんですね。
うへー( ̄□ ̄;)!!
それって、今のエンタメは読めないってことじゃないっすか(言いすぎかもしんないけど……)。
社員さん達のはなしは恩田陸へ進み、ある小説を読んでいて「視点が途中で変わったのが気付かなかった」みたいなことを云いだし、周囲は納得。そして、結論としては、伊坂さんや恩田さんの小説は、どこが面白いのかいまいちわからん、ということらしい。
平積みしてて、そんなのありぃ?
って感じですが、一人一人好みはありますから、それは良いのでしょう。
でも、すごい保守的な読みかた。直木賞選考委員みたいってのは、大森望豊崎由美文学賞メッタ斬り」シリーズ(PARCO出版)を愛読してたから思うようになったのですが、ねぇ。
もちろん、視点の問題とかは、視点人物によって文体を変えないと、分かりにくいのでしょうし、そういう書き方を選択する作家のほうにも、読者を測り損ねた責任はあるのかもしれません。
けど、万人に読める小説なんてハードルは高い(事実上無理?)し、近年におけるジャンルの細分化自体、特定の読者のための小説という隙間産業的傾向の現れだと思うのです。
ここからは私の推測ですが、物語はもう飽くほど書かれてきて、新しい物語なんてありえないわけで、“いま”物語を敢えて書くなら、どういった方法で書けば一番効果的なのかってことを、作家さんは苦心して考えられているのではないのかな、その現れが、構成に重きを置いたエンタメ小説群ではないかと。
映画やドラマなどの影響もあるのかもしれませんが、他メディアに比べて圧倒的にアナログな小説なんてものが、他と同様に市場に投下されるとき、商品たりえるためには、装丁など見た目もさることながら、中身についても、他メディアを意識(迎合)せざるをえないのではないでしょうか。
映像を意識した作品や、頭にイメージが浮かびやすい作品への志向が、小説での演出=構成重視の現れなのかもしれない、などと思ったりするわけです。作家もテレビ世代だし。
某ミステリー作家が「時間、空間、人物。どれかをずらすと、トリックが作りやすくなる」みたいなことを言っていたような気がするのだが、私はそれを聞いたとき感動しました。
ミステリーとSFなんて、時間がどれだけ重要な意味を持つか測り知れませんよね。歴史小説とかファンタジーなんかも、空間の捉え方(歴史認識)が必要になってくるでしょう。
私も流されるままに読むタイプで、本格ミステリでも謎解きは探偵にもっぱら任せ、謎そのものよりも、謎の探求過程というか筋道の議論とか思考(ああでもない、こうでもない、とか。私の場合、仮説を量=面白さです)を読んで楽しんでいるのですが、だからといって、視点や時間に無自覚ではありません(登場人物の名前を完全に覚えてなくて、この人誰やったっけ、みたいな状況になることはよくあります)。
だって、それじゃあ、小説を楽しめないでしょ。色々な読み方はあってしかるべきだけど、把握できなければ、面白さは半減してしまうと思うから。
なんて訳のわからん、偉そうなことを書いたりして、後悔している自分がいるわけですね。もっと思いをうまく文章で表現できないかな。切実な問題ですのん。
(追記)結局のところ、店長が読めないのは前半だけらしかった。当然そうでなければ、店長を疑うよ。後半は、伏線が気持ち良く回収されるのかしらね。
んでもって、伊坂さんや、海堂さんみたいなしっかりした作品を読むと、普通の小説なんて読めませんな、なんて失礼なことをかましてました。んもー、わしゃ知らんべ。