内田樹『子どもは判ってくれない』

語り口とは裏腹に刺激に満ちた本である。内田先生が大人の世界を子どもへ向けて書いた本といえばいいのだろうか。題材が多岐にわたる時評にもかかわらず全然古びていない。文庫版のためのあとがきで著者自らが述べているように内部情報などの新規情報を含んでいるわけではなく、誰でも知っているような題材に対して立場や意見を表明するといったものであるから<ある程度の期間読むに耐える>ものになっている。もちろん題材の捌き方が上手くないと人を惹きつけることは出来ないのでそこは内田先生の腕前によるものである。
内田本の性質といっていいのだが、読んでてすらすら頭に入ってくるだけでなく考えさせられることが多い。面倒臭いことでも逃げずに正面からじっくりと腰を据えて論じている。読んでてすっきりするのはそのせいかな。爽快というより肩の力が抜けていく感覚。気になったものをいくつか紹介します。
例えば村上龍タナトス』を読んで欲望と快楽の違いついて語ったくだり。<「快楽」とは本質的に個人的なものであり、「欲望」は本質的に模倣的なものである>。欲望は「他人が欲しがっているから」欲望するのであって模倣なのだと。もちろんそんなもんきりがないし満たされることもない。一方、快楽は<「快楽の追求」それ自体が十全な愉悦をもたらようなもの>である。村上龍によると日本人は快楽を知らないのだそうで、モデルを求めてしまうことが原因なのだそうだ。つまり快楽に模範解があると思ってしまうと。欲望と快楽を混同してしまうわけです。話は変わるけど、日本人のパロディセンスが優れているのは多くのモデルに接しているからではないかと私は思ったりした。世界は模倣から出来ているもんね。
つづいて高度情報化社会のくだり。情報が商品として流通するという考え方に懐疑を抱く内田先生。情報には実体などないのだ。情報は知っているものと知らないものとの間に差別化をもたらしたり、速報性によって時間的な差別化を行い優位な立場にたったりする。無意味な情報が大量に送り出されるのは、どうでもいいけど<社会的なステイタスの差別化をもたらす>からだと述べている。ここまではふむふむと納得。後半は情報が差別化の対象となる理由について歴史を紐解きながら語ります。<人間社会における差別化の指標は「政治権力」「富」「情報」という順で歴史的に推移している>。以下、長いけど引用すると。

古くは「権力」の有無が人間たちを差別化した。近代に至って「富」の有無がそれに代わり、現代に至って所有する「情報」の多寡が差別化の基準となった。(略)言い換えると、かつては「権力を持っている人間」のところに「富」と「情報」が集まり、次いで「金を持っている人間」のところに「権力」と「情報」が集中し、今では「情報を持っている人間」が「権力」と「富」を占有するようになった、ということである。(略)人類が権力→貨幣→情報というふうに期間的財貨をシフトしてきたのは、もっぱら貨幣は権力より、情報は貨幣より「放蕩されるスピード」が速いからという理由によるものであり、それ以上の必然性はない。

ということなのだ。といっても説明抜きではわかりにくいので補足します。権力であり富でありを持っている人というのは、浪費つまりは放蕩することによってしか示すことができないということである。富を蓄えているだけの人ではまったく差別化にはならない。情報の差別化は知らない情報をみんなが知っている情報にすることに意味(優位性)があるが、そうなったとき当の情報自体にもはや意味はない。てなわけで情報は大量に存在するが、一瞬にして消費されてしまう。つまり<「放蕩されるスピード」が速い>。やっぱりなんかあまりうまく説明できてない。。。
まだ沢山ありますが取り敢えずこのへんで。そうだ。どこに書いてあったか忘れたが、書評は相手の言いたかったことを書くべしみたいな記述もあった。実践できないだろうけどメモメモ。他にも有事法制についてや人権、外交、セックス、教育問題まで幅広い題材で本当に飽きさせないのであった。
橋本治氏の解説になっていないような解説も必見。

子どもは判ってくれない (文春文庫)

子どもは判ってくれない (文春文庫)