つかこうへい『蒲田行進曲』

映画『新撰組』で、はじめて主役を演ることになった銀四郎。その恋人で、かつてのスター女優小夏。そして銀四郎を慕う大部屋のヤス。銀四郎は、あたらしい「女学生のような」女の子に熱を上げ、妊娠した小夏をヤスに押しつけようとし、小夏は銀四郎を諦めてヤスを愛しようとつとめ、ヤスは「大好きな銀ちゃん」の言うままに、お腹の赤ん坊ごと小夏を引き受け、小夏との家庭を築いていこうとする。サディスティックなほどにマゾヒスティックに、傷つき、傷つけることでしか成立しえない「酷薄な愛」を描いたつかこうへいの代表作。第86回直木賞受賞。

原作は劇作品(戯曲)。自身が作・演出を手がけた劇作を小説化した作品です。
銀四郎の付き人というか手下である大部屋のヤスの視点から描いた前半部と、ヤスと同棲することになりお腹に銀四郎の子どもを孕んでいる小夏の視点から見た後半部から本作は成り立っています。
粗筋は上の引用のとおり。本書のキーワードである<サディスティックなほどにマゾヒスティックに、マゾヒスティックなほどにサディスティックに>が体現されている小説でした。読んだことのないかたにとっては「一体どういうことやねん!」という気持ちになること必死なので掻い摘んでおはなしします。
(本裏面のあらすじを読んだときの僕の気持ちがまさにそうでした)
銀四郎という尊大な態度の俳優がいます。みんなから銀ちゃんって慕われていて面倒見はいいけどいちいち細かくて癇癪持ちで(少なくとも私は)出来ることなら関わりたくない人物です。銀ちゃんの配下というか親衛隊みたいなのが何人かいてそのうちの一人が大部屋俳優のヤス。時代劇全盛期の時代で斬られ役や危険な役どころで食ってる売れない役者です。舞台でも日常でも銀ちゃんに殴られ蹴られのひどい扱いを受けるのに、銀ちゃんの憎めない性格とかたまに見せる優しさに逆らえずヤスは心底銀ちゃんを慕っている。ヤスは『新撰組』の見せ場である「階段落ち」を銀ちゃんの命令で引き受けることになります。死ぬか良くても半身不随という危険な役どころを銀ちゃんのためなら喜んで受けることや、物事を決めるときにも「銀ちゃんが〜」という基準でしか彼は考えないことを考慮するとヤスの異常なマゾヒズムは伝わるでしょうか。銀ちゃんもちょっとしたことでキレだすから、周囲の人間は何が起こったかも理解できずポカーン状態。銀ちゃんもサディスティックな一面を持っている。
それだけなら単なるSMなのですが、蒲田行進曲は一味違った。
銀ちゃんは若い女の子に惚れ、銀ちゃんの子を身ごもっている小夏をヤスに預ける。ここから視点が小夏に変わります。小夏のファンであるヤスは嬉しいものの小夏は銀ちゃんのことが諦めきれずヤスを拒絶する。妊婦である小夏を気遣って冷蔵庫や扇風機などを買うヤス。お金のために危険な仕事ばかり選ぶものだから生傷が絶えない。ヤスの父の十回忌に小夏もいくことになり、人吉で盛大な歓迎を受ける二人。二人の絆がだんだんと深まっていくように見えて齟齬が生じてくるのです。階段落ちを控え銀ちゃんにも相手されなくなり荒れるヤスと銀ちゃんを諦めヤスの温かさに触れたのにヤスに冷たくあしらわれる小夏。マゾヒスティックだったヤスがサディステッィクになってるというまさに驚きの展開なわけです。
巧みなのは前半はヤス、後半部は小夏とつねに被害者の視点から描いたということでしょう。
銀ちゃんにしろ後半のヤスにしろ思考回路は意味不明だし第三者から見たときにはっきりいって共感しづらい。被害者から描くことで奇妙な三角関係の恐ろしさが際立っているように感じた。
あと興味深いのは銀ちゃんとヤスの関係って随分ホモソーシャルだけどホモセクシャルではないのよね。妙な三角関係が成立しているのはヤスの献身っぷりがあるからでそのへんも面白かった。どうして銀ちゃんに惚れるのかはちょっと理解しがたいけど。ヤスもねえいい人だけど惚れない(人吉の母談)。
まともな人があまりいない小説ですが、現実はこんなもんだよね。新鮮な小説でした。
他に思うことがあればまた新しいエントリーで書きます。
(追記)
石田昌也氏によって脚色された『銀ちゃんの恋』が宝塚宙組によって今月上演されてたらしい。見たかった。

蒲田行進曲 (角川文庫 緑 422-7)

蒲田行進曲 (角川文庫 緑 422-7)