鹿島田真希『六〇〇〇度の愛』

女は長崎へと旅立つ。夫と息子をおいて。長崎で青年と出会い、情事を重ねる女。アトピーで背中が被れた青年は純粋で愚か者。名前を知らない彼を女は長崎と名付けた。女には狂気のなかで死んだ兄と兄を溺愛した母がいた。語りえない家族の物語と長崎での自分探しの物語が交差する小説。

私が今年読んだ本でいまのところベストなのが、鹿島田真希さんの『ゼロの王国』(講談社)である。帯にあるとおり、〈めくるめく会話劇〉で六〇〇ページを読ませる大作で、鹿島田さんがデビュー作以来書き続けてきた「聖なる愚か者」吉田青年を描いたある意味集大成ともいえる作品になっている。一読を勧めたい。
それはさておき、三島賞を受賞した『六〇〇〇度の愛』(新潮文庫)がやっとのことで文庫になり、先日読み終えたので感想を少し述べたいと思う。
内容は冒頭にあるとおり。括弧がなく会話と地の文が地続きの文章で、慣れないうちは読みづらい。江南亜美子氏の解説によると、デュラスの作品を下敷にしているそうで、文章もそれに倣ったものらしい。
主人公は女であり、長崎で会った人物は青年と表される。人物に名前を与えられていないという意味で、匿名性が高い物語である。現実と女の過去を行き来する文章と、生死を彷徨う女の姿が重なるところは見事。
似ている者同士だと思っていた青年と女は違う者で、兄の影を生きてきた女は、語ることで自分を発見できたのだろうか。家庭に戻り主婦に戻った女は現実とどう対峙していくのか。
本作では長崎なり原爆をメタファーとして描いている。一体何のメタファーなのだろうか? 六〇〇〇度という高温による喉(と心)渇きなのか、きのこ雲に惹かれた女の哀しみなのか。疑問は次々に湧いてきて、ついつい考えてしまいます。
読書の醍醐味である、想像する楽しみ、無限の広がりを文章とともに味わえる作品でした。

六〇〇〇度の愛 (新潮文庫)

六〇〇〇度の愛 (新潮文庫)